大河氏は私の羊飼い

このブログはフィクションであり、実在する大河氏とその周辺人物にはいっさい関係がない。

大河氏、春を味わう

 

 

冬との別れを惜しみ、春に希望を抱く。街に出れば、陽の光がどことなく明るく感じる。春はとても良い季節である。こんなに良い季節であるから、花粉症を患う者が不憫でならない。彼らの心情は察するに余りある。風よ!どうか立ち荒れぬよう。

 

 

 

 

 

 

ある少納言は、「春はあけぼの」と日記に書いた。大河氏はその主張を真っ先に否定するのである。

 

 

 

春といえば当然、桜である。大河氏がある少納言の春についての考察を否定した際に、いったい大河氏はどんな面白いものに春の趣を見出しているのだろうか、と身構えた読者に対しては、それがやや期待外れであったことを謝罪したい。

 

 

 

 

確かに桜の美しさ、芳しさ、艶かしさについては日本国民の多くが認めるところであろう。現に人々は桜の木の下にビニールシートを敷き、その上に座って酒を呑み、騒ぎ立てることを嗜む。なおこの間、彼らは1秒たりとも桜の花びらに目をやっていない。

 

 

大河氏もこの春、黒髪の乙女と新宿御苑で花見をしたい。他のどこでもなく、新宿御苑の桜を慈しみたい。大河氏は妥協を知らない男である。

 

 

 

 

 

桜というコンテンツは日本の文化のあらゆる面に侵食している。これはたいへん喜ばしいことである。薄い桃色の車を見かけた母親は、娘に対して「あれは桜色ですな」と教えるし、その娘の名前が「さくら」であったらそれはもう言うまでもなく趣深い。

 

 

桜の侵出は食品界についても例外ではない。世の中には、「桜味」と名乗る食品が存在するのである。

 

 

 

 

 

桜味は、食品界の叡智の結晶である。

 

 

 

 

 

 

 

スウィーツを例にとって考えよう。世のスウィーツには、大きく分けて「チョコレート味」「抹茶味」「いちご味」「黒糖味」の4種類がある。これらはどれも、消費者から一定の支持を得ている。

その理由の一つに、味を表すものの元々の味が良い、というものがある。チョコレート、抹茶、いちご、黒糖、それぞれの味の特徴は違えど、みな「美味しい」という共通の認識がある。一方で、「スイカ味」と名乗るスウィーツは果たして消費者の支持を得るだろうか。否、断じて否。スイカはあまり美味しくないからスウィーツの味としてはそぐわないのである。

 

 

 

 

 

 

その点、桜というもの自体が美味しいので、桜味のスウィーツも消費者の支持を獲得して然るべきである。桜の花びらあまり日常的に味わうものではないが、一年に数回は桜の花びらが偶然にも口に含まれることがあるだろう。その時の幸福感は言うまでもない。ほんのりとした甘み、植物的食感、飲み込んだ後の口の中の香り。桜の花びらがもたらすその全てが食べたものを幸せにする。

 

 

 

 

 

 

とはいえ、花びらの味をスウィーツに再現するのには苦労を要する。花びらは味が薄く、インパクトが少ない。これでは競争の激しい食品界で生き残っていくことはできない。スウィーツとしての形にするには味を親しみやすい者に改良する必要がある。

 

 

 

 

 

ただし、改良しすぎると今度は元の味とのイメージ上の関係が薄れてしまい、その味のアイデンティティが崩壊することになる。あまりにミルクの味が強いにも関わらず抹茶味を名乗るものには強い反感を覚えてしまうのは致し方ない。同様に、桜味が桜味たる所以を忘れてはならないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

よって完成した桜味。大河氏が初めてこれを口にした時の感動や。桜味よ永遠なれ。開発者に感謝感謝。クリエイティブな完成に敬服。当人を存じ上げないが、この場を借りて感謝申し上げる。

 

 

 

 

 

 

 

今年の春も、量産されるであろう桜味を堪能しようではないか。春の醍醐味ここにあり。その美味しさを知らぬ者はどうかご賞味あれ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

桜味に目がない人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大河氏、珍しく多忙な1日を過ごす

 

 

午前5時30分。起床。

ニット帽をかぶり寝癖を押さえつけ、歯を磨き、着替えを済ませる。荷物は前日のうちにまとめてある。

 

午前5時45分。母親に行ってきます、と力強く言う。玄関を出て、寒さに身をすくめる。

 

午前5時46分。就業先のコンビニに到着。事務所にて朝食を済ませる。ミニチョコクロワッサンの中身のチョコレートが小さくなっていることに気づく。誰にも聞こえない小さな声で文句を垂れる。

 

午前5時55分。始業。

 

午前6時53分。休憩する。今日は目覚めが悪かったからあまり作業がうまく進まない。同じシフトの主婦の方がよく働いてくれるからそれに甘えて今日は気楽にやろう、と思う。

 

午前9時05分。終業し、バイト先を出発する。そのまま最寄駅へ全力疾走する。途中で常連客と会釈を交わす。

 

午前9時12分。駅前のATMに到着。お腹が空いているたので、お金を引き出しながらミニチョコクロワッサンを食べる。6千円を引き出し、口座の残高を見て今月末を憂慮する。

 

午前9時16分。大学に向けて乗車。

 

午前10時09分。小田急多摩センター駅に到着。駅構内のパン屋さんに直行し、目についた3品を買う。学割で100円引きになり心の中で快哉を叫ぶ。生涯学生でいたいと思う。その後走り出す。

 

午前10時14分。京王多摩センター駅に到着、電車に乗る。

 

午前10時18分。南大沢駅に到着。

 

午前10時24分。大学に到着。

 

午前10時34分。混声合唱団あおいの練習が始まる。パート練習では、パートリーダーがバカンスに入ったため大河氏が代役を務めた。

 

午後0時11分。団内の会議に出席。指揮者の先輩がこれまたバカンスに入られたので大河氏が代役を務める。昼食をとりながら今後の練習内容などについて意見を交わす。議題があまりなかったから散々引き延ばすように努める。

 

午後1時02分。練習再開。昼食を挟んで知らない人がなぜか練習に参加していたが構わず練習を続ける。とても眠くなり、少々なおざりになる。

 

午後2時45分。全体での練習開始。指揮者がバカンスに入られているので当然自分が代役に入る。緊張で喉仏を吐き出しそうになる。団員に「緊張しているのか?」と聞かれても、笑い返してごまかす。組曲「そのまえ」の一曲目、二曲目を無理やり通す。通せたことに安堵する。指揮の難しさと楽しさを知ったような顔をする。また校歌の指揮を振り、壁に跳ね返される。指揮を振りながら曲の細かい部分まで感じることは難しいと感じる。先述のストレンジャーらからアドヴァイスを受け、感謝する。

 

午後4時20分。練習を終わらせる。自身の能力の不足ゆえの練習時間の延長を申し訳なく且つ恨めしく思う。学校を出て南大沢駅までの全力疾走を披露する。

 

午後4時30分。乗車。電車に揺られながら、今日の指揮者としての醜態を反省する。精進しようと思う。そして眠りにつく。

 

午後5時12分。新宿駅に到着。京王線改札からJR線改札までの全力疾走を披露する。

 

午後5時27分。来るべき全力疾走の機会に向け、電車内での着替えを開始する。コートの下に着ていたパーカーを脱ぐ。大河氏の予想とは裏腹に車内の誰の気にも留められない。

 

午後5時38分。品川駅に到着。同時に全力疾走を開始。

 

午後5時45分。目的地に到着。慌てて会場内に入ると、女神が踊っているのが見える。大河氏はその美貌と美声に酔いしれる。このまま死んでしまいたいと思う。会場の熱気を感じる。

 

午後6時00分。ライブが終わり、女神が消え去る。不意に悲しさに襲われる。会場を出て、女神とのツーショット撮影券を手に入れるためにグッズを購入する。ツーショット撮影を待つ同胞と挨拶を交わし、今日も良かったねという。ツーショット撮影を順番におこなっていく。大河氏は女神との共同作業で手でハートの形をつくる。そして女神に謝罪する。女神は「なぜ?」という。大河氏は「思い出なり。」という。興奮を抑えようと必死になる。同胞から、顔が赤らんでいることを指摘される。大河氏は「生まれつきである」と反論する。撮影が終わり、同胞と駅に向けて歩き出す。同胞が騒ぎ立てるからどうしようもない輩だな、呆れる。同胞に別れを告げる。明日のライブも楽しみだな、としみじみ思う。

 

午後7時08分。横浜方面行きの電車に乗る。当ブログの執筆を始める。

 

午後7時30分。横浜駅で降車。たい焼きを立ち食いし、また自宅方面の電車に乗る。当ブログの執筆を進める。

 

午後8時54分。推敲する。

 

午後8時57分。公開する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多忙が正義であると勘違いする暇人

 

 

 

 

 

 

 

大河氏、もがく

 

 

どうもこんにちは。久方ぶりですな。

 

 

 

ブログの更新が滞ってしまって申し訳ない。当方の持病が再発してしまった。

 

 

大河氏の交感神経氏と副交感神経氏が喧嘩をしてしまっているようだ。この不仲は大河氏に舌咽神経由来の吐き気や異常な眠気、聴力の低下などをもたらす。

これらを我慢するためには、歯ぎしりを怠ってはならないのだが、歯ぎしりをしすぎるとこめかみが痛む。気がつくと、歯ぎしりを自分の意思で抑制することができなくなる。こんな症状である。

 

 

投薬をするから、両神経氏にはぜひとも反省していただきたいと切に願う。

 

 

 

 

 

さて、大河氏はこのような症状に悩まされていたのでブログの執筆を10日程度自粛していたのである。

 

大河氏のブログの更新を毎日楽しみにしている読者諸賢には、本日大河氏がブログを更新したことに関しては慶賀にたえない。

 

一方で勘の鋭い諸兄姉の中には、大河氏はブログの執筆に飽きたことを悟られないように嘘をついているのではないかとか、その程度の症状ならブログの執筆はできるはずだから言い訳になっていない、と意見する者があるだろう。

 

 

 

 

ここで、大河氏が最も正しいと思う某氏の意見を紹介しよう。

 

 

 

このブログでいちばん間違っているのは紛れもなく大河氏である。大河氏はここ数日ブログの執筆をやめていた。事実としてはそれだけのことである。冒頭にあった大河氏が患っている病などの事情は読者にとって全く知ったことではない。読者が見える事実は大河氏がブログを書いているか書いていないか、それだけである。すなわち、読者が望むものも大河氏がブログを書くこともしくは書かないこと、その事実だけなのである。事実はよく見えるものであるのに、なぜこんなに簡単なことを理解することに苦労するのだろうか。

 

 

 

 

大河氏はいつも、人に嫌われたり、人格を否定されてしまうことを心配している。ブログについて批判されることももちろんそうである。

 

そのため、大河氏は主観をもって自己評価を決めてしまいがちである。大河氏は自分が失策を犯した時には言い訳をすることがある。そうすれば、相手は自分を許してくれると思うからである。

 

だが、実際はそこにあるのは「大河氏が失策を犯した」という事実だけである。その事実は、他人の心をどう操作しても覆ることはない。

 

 

 

場合によっては理由を伝えることが今後の改善につながったり、相手を安心させたりすることがあるという意見は尤もである。

 

 

 

 

 

 

大河氏は、最初はそこには事実だけが存在し、それ以外のあらゆるものはそれに付随すると考える。

 

 

 

 

どんな理由があろうとも、ここで読者諸賢と大河氏が共有できるのは「大河氏がブログを数日間書かなかった」という事実だけである。「大河氏は療養のためブログの執筆を控えていた」というのは単なる主張であり、読者諸賢にとっての事実であると断言できるものはいない。

 

事実と主観は別のものである。事実以外のことは各々の憶測の中で留めることしか出来ない。

 

これはたいへんもどかしい作業であるが、このもどかしさを乗り越えて、我々はまた物事を見つめなければならないと思う。事実と主観を一度切り離して考察する必要があるということだ。

 

 

 

大河氏は主観が存在してはならないものだと考えているわけではない。ブログを書かなかったことをここに詫びたい。詫びたいのは諸賢がブログの更新されるのを待っていると大河氏が「推測する」からである。申し訳ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

唯物論症患者

 

 

 

 

 

 

 

 

大河氏ら、近況を報告し合う

 

 

 

 

 

昨日、中学時代の旧友の3人と再会した。

 

 

再会と言えど、リラックマ会長氏は2日前に一緒に映画を見に行ったし、カグラザメ氏(19)は家が近いからしょっちゅう出くわす。

 

東京理化学研究大学に通うウーパールーパー氏(19)は葛飾区に住んでいるからあまり会うことは無いし、大河氏はそもそもコイツに会いたいとは思ったことは一度たりともない。昨日もお呼びでないのに勝手に来た。

 

 

 

4人は伊勢原駅で落ち合うと、長居できる店を求めて彷徨った。ウーパールーパー氏はある格安イタリア料理店を提案したが、大河氏が断固拒否した。大河氏は、「和食が食べたい」と主張し、明治政府の欧化政策を批判した。

 

 

結局、4人はリラックマ会長氏の提案により別のイタリア料理店に向かった。大河氏は、ミートドリアを熱がりながらも美味しそうに頬張った。

 

 

 

 

ウーパールーパー氏とも、中学卒業後も数回だけ会っている。が、我々が20歳を目前にした今、彼が中学卒業時と比べて驚くほど変化していないことがわかる。むしろ、年齢相応の一般的な成長を遂げてきた我々3名と比べると、ウーパールーパー氏が変化してしまったとも言える。

 

 

 

 

ウーパールーパー氏はフランス語を学んでいると言った。大河氏も大学でフランス語を学んでいる。しかし、フランス語の知識ではウーパールーパー氏が優っていた。大河氏は、「フランス語の授業で学んだのはフランス語ではなくフランスの文化である」と言い訳した。言語はそれが使用される地域の文化や歴史を表すから、大河氏の言い訳には筋が通っている。大河氏があまりに言い訳を繰り返すから、ウーパールーパー氏は大河氏が正しいことを認めた。

 

 

 

 

 

 

カグラザメ氏は連敗を喫している最中である。何に破れているのかと言えば恋である。カグラザメ氏は既に就職していて、そこには出会いがないと愚痴をこぼした。大学に通う3人を羨んでいた。どうやらカグラザメ氏は誤解しているようだ。大学に通っていても異性との交流などない。

 

カグラザメ氏は旅行先の立ち食い蕎麦店の女性に声をかけてみたり、絵画コンテストで共に入賞した女性をデートに誘ってみるなど、行動力には定評がある。大河氏もこの行動力には尊敬の念を抱いている。ウーパールーパー氏は「気持ち悪い」としてカグラザメ氏の行動を批判したが、科学に没頭して道を踏み外したウーパールーパー氏よりもカグラザメ氏の生き様のほうが真っ当なものである。科学に没頭することは犯罪であるが、意中の女性に敬意を払って近づこうとすることは犯罪ではない。

 

 

カグラザメ氏よ、吉報を待つ。

 

 

 

 

 

 

 

不意にリラックマ会長氏が「京都に行きたい」と言い出した。すると大河氏は「フランスに行きたい」と言った。カグラザメ氏は、地理的条件から大河氏の主張を支持した。当時彼らがいたのはイタリア料理店であったから、京都よりもほど近いフランスを旅行先に選ぶのは当然である。リラックマ会長氏は不貞腐れて眠ってしまった。

 

イタリア旅行の行程をカグラザメ氏と話していると、突然ウーパールーパー氏が「イタリアにはイタリアしか見どころがないが、京都には下鴨神社、鴨川デルタ、下鴨幽水荘など見どころが沢山ある」と言った。カグラザメ氏と大河氏はこの意見に同意し、京都旅行の計画を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、生産性のある話を一切しないまま4人は店を出た。リラックマ会長氏はピッツァの食べ過ぎで吐き気を催していたので、大河氏はそっと4人から離脱して自宅へ避難した。リラックマ会長氏、お大事に。

 

 

 

 

 

 

 

友人思いの紳士

 

 

 

大河氏、精進する

 

 

 

 

親譲りの無鉄砲で小供の頃から損ばかりしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大河氏は最近、難題に取り掛かっている。

 

 

 

 

 

 

 

大河氏は、薔薇色のキャンパス・ライフを求めて、昨年4月に混声合唱団「あおい」に入団した。

大河氏は入団時点で経験者ではないが、もともと歌うことが好きである。

 

 

 

入団してからいくつか気づいたことがある。

 

 

ひとつめは、合唱団への入団は薔薇色のキャンパス・ライフを保証しないことである。

煌びやかな女性陣とは対照的に、男性陣は常に奥手で外堀を埋めることに熱中する。石橋を叩いて破壊するものばかりである。そんな彼らにとって憧れの異性は常に高嶺の花であるに違いない。

 

ふたつめに気づいたことは、合唱団には特殊な性癖を持つものが多数在籍することである。この詳細は両性の尊厳にかかわる話だから割愛させていただく。

 

 

 

 

 

冒頭で話した難題とは、文字通りの難題である。

 

 

 

 

大河氏は2月から副学生指揮者という立場に置かれる運びとなった。大河氏の経歴から鑑みるとまったく意味不明である。「果たしてこんなに意味不明な人物に指揮者なんぞ務まるものなのか?」と日夜葛藤を重ねているが既に決まったことである。無鉄砲の賜物であるな、と痛感する。

 

 

 

 

 

 

大河氏は当然指揮法を練習しているわけだが、それが固い決意だけをもって上達するものではないことは自明である。

 

 

 

 

大河氏ら混声合唱団あおいの指揮者部隊は主に外部から指導者をお招きして指導を仰いでいる。指導にあたってくださる公爵氏(年齢不詳)は熱心に大河氏らに指揮法をご教示くださるが、大河氏はどうにも上達しない。

 

 

 

 

 

 

大河氏は公爵氏が話す内容を頭の中では理解している。だが、身体をもって実践することが難しい。

 

自分の動きを他人に見られることが妙に恥ずかしく、そのためうまくやらなければならないと意気込むと緊張してしまう。

 

緊張すると、まるで頭と身体が離ればなれになってしまったような感覚に襲われる。頭でイメージしている動きを腕に命令する神経回路がおかしなことになる。

 

一方、帰宅してからふと思い出してやってみると思い通りの動きができてしまうから不思議である。

 

 

尤も、如何なる状況下においても自分の実力を発揮しなければならないことはあらゆる世界においても同じであり、そうでなければ日頃の練習は意味をなさない。

 

 

指揮がうまく振れることはとても快感である。大河氏も、立派な指揮者でありたいと願う。そのためには、練習ですら思うように動かないようでは話になるまい。

 

 

 

技術も精神もさらに向上しなければならぬ。

 

 

 

 

 

 

 

excelsior! 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤面症患者

 

 

 

 

大河氏、春休みに入る

 

 

 

大河氏は昨日で後期の期末試験を全て完了した。レポート課題がひとつ残っているが、大河氏の文才をもってすれば瑣末なものだ。

 

 

 

 

 

 

長期休暇は大学生の特権である。これだけ長く自由な時間が与えられると、逆にどう使って良いのかわからず、困惑してしまいますな。あなたは突然2億円を渡されても、どのように使ったら良いのか思案を巡らせるうちに途方に暮れてしまうであろう。

 

 

 

 

 

長期休暇と雖も、人間は成長することを怠ってはならない。長期休暇に入った大学生は基本的に一日中、布団の中で過ごしてしまいがちである。その行為が無意味であるとは言わない。

戦略的休憩は成長に不可欠である。

 

 

 

ある将来有望な小学4年生は、

「他人に負けることは恥ずかしいことではないが、昨日の自分に負けることは恥ずかしいことである」

と発言した。これはまことに至言であり、真理である。

 

 

 

 

 

普段は学校に通えば学友に会い、店に行けば店員と最低限の会話をせねばならず(店員側も望んでいない場合が多い)、電車に乗れば老若男女の見知らぬ人と空間を共にしている。

 

春休みに入ってもなお、人との出会いを求めて外出するのは大いに結構である。

 

 

一方で、大学に通う必要がないと、家の中に閉じこもりがちになるのも致し方ない。そして家の中にいるとつい布団に潜りながら桃色映像を見ているうちに1日が終わってしまうのが男子大学生というものである。

 

 

 

 

大河氏もバカンスをうまく使うことが苦手な大学生のうちの一人である。

 

この対策として、ものわかりの悪い大人は、予定を立てることの大切さを説くが、大抵の場合はそれが実行されることの難しさを無視している。

 

 

 

 

だから大河氏はこの春休み、毎日何かひとつ、ほんの1μmで良いから成長していきたいと思う。

 

これを達成することで、バカンス終了後の精神的な充実感も変わってくるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

そして大河氏は、春休みという枠組みにとらわれず、あらゆる毎日で成長を重ねていきたいと思っている。

 

還暦を迎える頃には成長しすぎて大変なことになっているかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バカンス愛好家

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大河氏、反響を呼ぶ

 

 

 

余がブログを書き始めてから、はや5日が経過した。

 

自身が執筆に飽きるのと同じように、読者諸賢もご尊覧に嫌気が差しているに違いない。

 

 

 

 

それでも、過去の記事を読んだ知人友人から「おもしろい」「たいへん見所がある」「感動した」「興味深い」「気持ち悪い」など、余を賞賛する言葉をいただくことがあるのは喜ばしいものである。

このようなありがたきお言葉は執筆を続ける動機になる。

 

 

 

 

大河氏は、ふつう批判というものが簡単に表明されるものではないことを考慮していない。精神が確かな人間であれば、大河氏が執筆した記事を読むことで吐き気を催すか、もしくは大河氏のブログなんぞに興味持つはずがない。不正直者からのお世辞に満ちた言葉を間に受け、破顔一笑の風である大河氏の姿を見てしまうとまったく不憫でならない。どうか、黒歴史を製造し続けた結果として地獄に落ちぬよう。それとも、大河氏は過去の華々しい活躍をもって地獄行きが決定しているであろうから、畏怖すべき黒歴史などないのだろうか。あな恐ろし。

 

 

 

 

 

 

例え執筆に疲弊したとしても、余は日々書き続けなければならない。記事を待ち望む者がそこにいる限り、執筆をやめれば地獄行きも同然である。

 

各所からの賞賛の嵐を目にするところ、余にはやはり文章を書く才能があるのだろう。

将来は芥川賞作家を目指そうか。

 

先日、炎上が趣味のとある社会学者兼作家がバラエティ番組に出演しているのをたまたま目にした。

 

 

余にしても、推しのアイドルとテレビ番組で共演できる日もそう遠くはないかもしれない。

 

 

 

 

今から心が躍々しますなあ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世間知らずの反面教師

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

如月氏、迎えられる

 

 

 

実に寒い日が続きますな。大河氏は冬が好きだが寒いのは嫌いである。この寒さに耐え凌ぐことは、四季の変化が豊かな日本に生まれた宿命であろう。

 

 

カレンダーに目をやれば、外がこんなに寒いのにも頷ける。暦は今日から2月に突入した。

今年の冬は暖冬と言われるが、体感的には例年の寒さと大差ない。

 

 

 

 

冬の盛りと言えば2月、2月といえばバレンタインデー。

これが一般的な童貞の見解であることに異論はないだろう。

 

 

 

 

大河氏は長年の経験から、この日に発生するとされる異性との突発的な馴れ合いに期待してはならないことを知っている。

なぜなら、そのようなイベントが発生するような可能性がないからである。

 

まともな人間は可能性がないもしくは限りなく低いことに期待を抱くことができない。

もし宝くじで2億円を当てることを夢見る者がいるなら、その人は単なる阿呆である。

 

 

 

 

高校時代に、「チョコレート回収ボックス」なるものを首に引っさげながら各教室を練り歩く哀れな男を目撃したことがある。

紳士的な大河氏は、惨めな行為に走らないことを誓った。

 

期待するから拗らせるのだ。

 

童貞諸賢よ、2月14日がバレンタインデーであることを忘れよう。もしくは、バレンタインデーという言葉の意味を改変し、ロッテ球団の某名監督の栄誉を讃える日としよう。ちなみに、今年の2月14日は仏滅である。

 

 

 

 

 

大河氏はいつでも童貞諸賢の味方である。決して裏切る事はしないから、安心したまえ。チョコレートが欲しければ、いつでもくれてやる。

 

 

 

 

明日から数日間は気温が上がるそうだ。寒暖差が激しい時期には体調を崩しやすい。

あなたが風邪を引こうが大河氏には関係ないが、どうかその風邪をうつすなかれ。咳エチケットを徹底せよ。

大河氏も今日から春休みに入ったのである。大切なバカンスだ。うつした者は訴訟する。

 

 

 

 

 

 

 

 

期待を捨てきれない人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大河氏、勇気を出す

 

 

 

今日の大河氏はぜっぷダイバーシティ東京という仰々しい名前の施設に行った。推しのイベントが目当てである。

 

大河氏は、推しがやがて日本アイドル界のトップに君臨することを信じて疑わない。

その過程を支えることが、自分に与えられた使命であると考える。

 

 

大河氏の推しは、心を奪われるのも納得の、絶世の美女である。その存在については追って紹介するとしよう。

人生においていちばん大切であると思うことについては、軽々しい気持ちでブログに書いてはならない

 

 

 

 

今日の現場は普段以上に盛り上がり、大河氏も喉を枯らしたわけだが、そんな現場に向かう電車内で、ちょっとした''事件''が発生した。

 

 

 

大河氏は新宿駅から埼京線に乗り込んだ。埼京線車内は幸い空いており、大河氏も自身が座る座席を確保すると、後から隣の席に若くて知的な男性が座って来た。大河氏は電車内で座席を確保すると高確率で読書をたしなむ。読書というと聞こえが良いが、読むのはほとんどの場合小説であるからあまり修学の助けにはならない。ちなみに今日読んでいたのは瀬尾まいこ氏の『そして、バトンは渡された』という複雑な家庭に強く生きる者を描いた作品である。今年の本屋大賞にもノミネートされている良作であるから読者諸賢にもぜひ一度は手にとっていただきたいものだ。

 

 

 

 

話を引き戻すが、大河氏は電車内で無事に席を確保し、読書をしていた。乗車してから20分ほど経った頃だろうか、その''事件''は発生した。

電車がある駅に着くと、隣に座っていた知的な男性が立ち上がり、ドアに向かって歩き始めた。大河氏は読書に集中していたが、数秒前まで知的な男性が座っていた座席の上で、銀色がきらめくのがふと目に入った。

 

それは明らかに自転車の鍵である。

 

知的な男性は既にこちらに背中を向けているから、この鍵を忘れたことに気づかずに降車するだろう。ここで行動すると、乗客の注目を浴び、恥ずかしい思いをするだろう。一方で、知的な男性の予想されある今後の不便は、大河氏の恥とは比べることはできないほど計り知れないものなのではないか。視界はスローモーションのようにゆっくりと動いていたが、気づくと大河氏は知的な男性を呼び止め、例の鍵をその手に渡していた。男性が降車し、アナウンスに次いでドアが閉まると、我に帰った大河氏は再び読書にとりかかったが、なんだか急に耳が熱くなった気がした。恥ずかしかった。

 

 

 

 

大河氏が日常的に答えを探している問いがある。本当の「優しさ」とはどのようなものだろうか、ということである。人々は頻繁に、自分の友人や恋人の「優しさ」を評価したりする。本人たちは「優しさ」とは何かという問いに対する答えを確立しているのだろうか。抽象的であり、あまりに無責任ではないか。

 

 

 

 

大河氏は、「優しさ」とは本質的に何であるかと問われたら、それは「勇気」であると答えるようにしている。ただし問われた経験はない。

 

 

ある人は、試験を前に、自身が自主休講を重ねた科目のノートを見せてくれた友人に対して「優しいのだな」と言った。

 

大河氏はこのやり取りに違和感を覚えてしまう。

彼に対して「優しさと妥協を履き違えてはならない。」と伝えたい。

 

捻くれているだろうか。

 

 

 

 

 

 

あなたは、電車やバスの車内で高齢者に座席を譲ることができるか。友人の目元にヤニが付着していたら指摘することができるか。大学構内を歩いている赤の他人のリュックのファスナーが開いていたら、それを指摘することはできるか。

 

優しさの裏側には、恥が存在する。

 

 

 

 

むろん、優しさの定義は人それぞれであり、自分の価値観を他人に押し付けることはできない。そもそも定義などできないし、状況にもよるだろうという批判も大いに結構である。大河氏かて、友人にノートを見せてもらうこともある。人格者というわけでもなく、優しさについて研究を重ねたわけでもない者の戯言であるから、どうか読者諸賢には内容を客観的に考察されることを要請したい。そしてより優れた意見を持つ者はそれを教えてください。

 

 

 

 

 

 

書きたかったことは、大河氏は本当に困っている人(雑な表現で申し訳ない)に対して、自分の手助けが必要かどうかを判断したのちに、勇気を出して手助けを実行できる人になりたいと常々願っている、ということである。

その観点から見れば、今日の大河氏の行動は賞賛に値するだろうが、賞賛を求めてする行為は「優しさ」ではなく「偽善」であることを肝に銘じなければならない。

 

 

 

 

優しさとは勇気であり、勇気とは優しさである。

 

 

 

 

 

 

ブログに私見を持ち込む人

 

 

 

 

リラックマ会長氏、長期休業に入る

 

 

 

大河氏の幼稚園来の友人リラックマ会長氏(19)が本日から春休みに入ったとの報告を本人から受けた。

 

実にどうでもよく、ただ腹立たしい。

なぜ彼の方が大河氏より3日も早く春休みに入ることができようか。

 

どうか、彼が水虫を発症して春休みのうち3日間を棒に振りますように。

 

 

 

かくいう大河氏もあと2日間の通学を耐え凌げば、晴れて春休みを迎えることができる。この長いバカンスを有意義に過ごさない手はないから、さまざまな計画を立てている。

 

その一つが、京都旅行である。大河氏には京都の街に漠然とした憧れがある。あんなに大河氏をわくわくさせるのは京都だけであると断言しよう。リラックマ会長氏もこの計画に賛同した。折角なので宿泊所の手配などは任せてあげようと思う。

 

 

 

 

また、後期のうちにブッコフ出版の心揺さぶる小説をたくさん買ったが、当方多忙につきまだ手をつけられずにいるものもある。こちらを読むことにも時間を割きたい。決して猥褻なものではない。

 

 

 

 

 

読者諸賢の中にも、じきに春休みを迎えるものが多いと推察する。修学に奔走するもよし、物思いに耽るもよし、毎日ジョニーとにらめっこし、敗北の快感をひたすら味わうもよし。なんと、ますますバカンスが楽しみになってくるな!

 

 

 

 

Bons vacances!

 

 

 

 

ジョニーに敗北したことがない人