大河氏は私の羊飼い

このブログはフィクションであり、実在する大河氏とその周辺人物にはいっさい関係がない。

大河氏ら、桜の気まぐれに敗北する。

 

 

 

大河氏は、西田幾多郎氏の著した『善の研究』に挑んだことがある。結果として、大河氏はこの書を前にこてんぱんにやられてしまった。極めて難解な書である。この書を解読できたとき、大河氏は「我が人生に悔いなし!」と言えるのだろう。

 

そんな西田氏が思索に耽りながら歩いたとされるのが、京都の琵琶湖疏水沿いの歩道「哲学の道」である。

 

 

 

大河氏、リラックマ会長氏、カグラザメ氏の愛すべき幼なじみ3人組が、3月下旬の京都旅行においてこの歩道での花見を楽しもうとしたことは言うまでもない。事前に写真で見た哲学の道の桜の美しさをこの目で確かめたいという方針で3人は一致していた。

 

慈照寺で心を落ち着かせたのち、ソフトクリームをむちゃむちゃと食べながら南禅寺へと伸びる哲学の道の入り口に向かった。

 

地図を頼りに歩く一行であったが、あの桜の咲き誇る哲学の道の風景となかなか巡り会うことができない。大河氏らは異変を感じ始めた。道を間違えたのだろうか。

 

 

しかし、大河氏らは自分たちが道を間違えているようには思えなかった。地図の示す通り、3人の左手には琵琶湖疏水が流れている。これではまるで、哲学の道を目指して哲学の道に迷い込んでしまったようであるが、そんなはずはないだろう。カグラザメ氏が口を開いた。「我々はこの厳然たる事実を認めてやらなければならない。」大河氏は大いに落胆した。目の前にある木の細い枝の先の方には、硬くてかつ脆そうな蕾が見えた。桜は開花の時期を迎えていなかったのである。

 

 

 

桜の咲かない哲学の道は殺風景であった。こんな道を歩いていると、ふと西田氏が物思いに耽りながらこの道を歩く姿が頭の中に浮かんだ。裸の木を見てため息をつき、「人生とは何だろうか。」と大河氏は呟いた。なるほど、桜の咲かない質素な景色の哲学の道は歩く者を妙に哲学的な気分にさせるのである。

 

カグラザメ氏は前方を歩く1人の乙女を指差して「顔を見てみたい。」と言い出した。黒髪を肩まで垂らした後ろ姿からは桜のように美しい顔の乙女の姿が想像された。彼女が振り返ってその顔を見せることはなかったが、大河氏とカグラザメ氏は互いの妄想を共有して楽しんだ。リラックマ会長氏はくだらないと言って興味を示さない素振りを見せた。彼の不器用な姿を見て大河氏とカグラザメ氏は笑い合った。

 

 

 

 

そこから話は膨らみ、大河氏とカグラザメ氏は各々の好みの女性について徹底的に議論し、大いに盛り上がった。リラックマ会長氏はしばらく黙って歩いていたが、急に立ち止まり言った。

 

「人生とは、求める美しい花の気まぐれに敗北を繰り返しながらも、その敗北を糧にまた新たな美しい花を見つけることを繰り返すことである。もし今日、哲学の道に桜が咲いていれば、君たちは今ごろこんなくだらぬ話に花を咲かせてはいなかったであろう。桜の咲かない哲学の道、万歳!大団円!」

 

リラックマ会長氏の熱弁に2人は感動し、高らかに笑い声をあげ、拍手を送った。そして桜の気まぐれに感謝し、開花してなお我々を楽しませてくれるよう木々に対して熱いエールを送った。リラックマ会長氏も加わって、3人は再び好みの女性について熱い議論を交わしたのだった。