大河氏は私の羊飼い

このブログはフィクションであり、実在する大河氏とその周辺人物にはいっさい関係がない。

大河氏の弁明

 

 

 

 

大河氏の母親は大河氏に対していつも部屋を片付けなさいという。大河氏が大河氏軽蔑社会に疲弊して帰宅するやいなや部屋を片付けなさいというので、帰宅時にはドアをそおっと静かに開け閉めしそそくさと二階の自室に立てこもる。そうでもしないと耳にタコができるだろう。起床は母親が外出してからにすると決めている。どうせ片付けないのだから、部屋を片付けなさいと言うのに使う母親の労力を削減しようという大河氏なりの配慮である。なんと立派な孝行息子だろうか。

 

 

 

 

しかし大河氏は自分でも自室が散らかり過ぎていることを自覚しているのである。だいいち自室に足の踏み場がない。これに関しては散乱した本や服を踏めばいいのではないかと思われる普遍的な価値観を持った読者も多かろう。しかしながら、視力の低い大河氏は、起床しお手洗いに向かう際に床に置かれたものを踏んで転倒したり、足の裏にあざができたりするのが朝の風物詩となってしまっている。ゴミ箱に足を踏み入れてしまいあまりの惨めさに号泣することも日常茶飯事である。そんなことが起こるたびに大河氏は自室を片付けておかなかったことを反省するものである。

 

 

 

 

そんなに自分を傷つけてもなお、大河氏は自室を片付けることができない。

 

 

 

 

そもそも大河氏は多忙な大学生であるから、自室を片付ける時間など用意していないのである。授業や合唱団あおいの活動もさることながら、帰宅すれば万年床で猥褻文書を読んだりアイドルの動画を閲覧し、気づいた時には朝のお目覚めである。そうして入浴しながら大声で歌い、最寄駅めがけて全力疾走する毎日である。電車に乗ると汗だくになり、せっかくの朝風呂は台無しである。しかし上がった息は大河氏に生の実感を持たせる。今日も温泉街は暖かいな!

 

大河氏は一日中家にいる日もあるがそういった日に自室の掃除をすることを自らに許していない。休暇を満喫しないことは人間としての怠慢であるから、そんな日は主に猥褻文書を読むかアイドルの動画を閲覧する。それに飽きればもうすることがないので寝るのである。

 

 

 

部屋の掃除をしない理由は多忙だけではない。部屋の掃除をしなくても大河氏には死なない自信がある。大河氏は常に合理性を重視して行動する。死なないのであれば自室の掃除なんて面倒なことはしないのが合理的だという主張には誰もが共感するところであろう。

 

机上にはもう2度と見返されることのない授業プリントが積み重なっているが、長い期間置かれているとなんだか愛着が湧き、捨てるのが惜しくなってしまうのが人間の性である。勉強や読書は絶海の孤島こと椅子上ですることができる。自室は埃だらけなので喘息を発症し死ぬほど辛い思いをしたことがあるが死んだことはない。さらに上述の通り大河氏は自室が散らかっていることで怪我をしたことがあるが、やはり死んだことはない。

 

死が怪我や病気の延長線上に存在する事を考えれば、部屋が汚い事は非常に危険であり、現に大河氏には死の兆候が垣間見える。ならばやはり自室をクリーン・アップするべきだ。大河氏は常に合理性を重視する男なのだ。

 

 

 

 

 

臆病者の大河氏はこうした思考に基づき自室を掃除することがある。掃除ができないのではなくきっと普段はしようとしていないだけなので、いざ手をつければぽんぽんと片付けることができる。

部屋が綺麗になるとスペースが生まれる。そして、空間は利用されるためにある。空いたスペースに洗濯済みの服や脱ぎっぱなしの服、授業プリントや本の類を置いていく。スペースが有れば利用するのが合理性に基づいた行動である。整頓された部屋はアッという間にいつものゴミ屋敷へ元どおりとなる。

 

 

 

 

 

大河氏が連発する''合理性''という言葉は所詮言い訳に過ぎない。大河氏はこれからもこの汚い部屋で怪我や病気をし、望まない学問的退廃に精を出していくだろう。怠慢が敗北するのは必定であり、部屋の乱れはその象徴なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絶対的生活感主義者