大河氏は私の羊飼い

このブログはフィクションであり、実在する大河氏とその周辺人物にはいっさい関係がない。

大河氏、春の別れをつらがる

 

言わずもがな、春は別れの季節である。

 

別れといえど、それはさまざまな分類ができる。その翌日に再会をする「別れ」もあるだろうし、その再会が1年後のもの、10年後のもの、死ぬまで再会しないもの、死ぬまで思い出さぬもの、その全てをひっくるめて世の人は「別れ」と呼ぶ。

 

 

 

3月は別れの季節であるが、別れというものは潜在的にはどの季節にも発生しうる。どの季節にも発生しうるし、それがもとより予期できぬ場合もある。

 

人の死も別れの形の1つであり、それは上記のうち「(自分が)死ぬまで再会しないもの」に分類されるといえる。もちろんここでいう「再会」とは物理的なものである。

 

 

人の死は、私たちに「もう2度と会うことができない」という絶望感をハッキリと植えつける。だから私たちはそれを「今生の別れ」として特別に意識することができる。そう意識できることで私たちは途方もない悲しみに襲われるが、別れとして認識し、涙を流すことができるというのはじつは幸せなことでもある。

 

 

 

 

 

 

私はこの春にも多くの別れを経験するだろう。しかしこれは、「一生再会できない」という絶望感を伴うものではなく、「また機会があれば会えるし、今と変わらず楽しむことができるだろう」という半ば楽観的な予測をさせる類のものである。

 

 

 

しかしながら、そのような予測を確証としてもつことはできない。この春に別れたきり、死ぬまで2度と会えない可能性を誰が否定できるだろうか。それは私にとってその存在の「死」とまさに同義である。私の中でその別れる存在は別れの瞬間以降は「思い出の人」であり、「思い出の中でしか生きられない人」である。

 

 

 

おそらく、この春に私が別れる人の中にも、このような人、つまり死ぬまで2度と会うことのない人がいるだろう。本来ならばそれは言いようもないほどに悲しいことであり、私は泣きじゃくることを余儀なくされてしまう。

 

 

しかし、私にはそれができない。なぜなら、私はどの別れに対しても、「死ぬわけではないからまたどこかで会うことができるだろう」という楽観的な姿勢を貫いているからである。そうでないと私は毎春、泣きすぎにより溺死してしまう。

 

 

 

 

 

 

「死」と「春の別れ」は、ときに同義であり、「春の別れ」の方が、「2度と会えない」という可能性を隠しがちであり、タチが悪い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私はそんなことを考えながら、中途半端な気持ちで毎日の別れに臨み、出会いに後悔するのである。