大河氏は私の羊飼い

このブログはフィクションであり、実在する大河氏とその周辺人物にはいっさい関係がない。

大河氏、青春万歳論を批判する

 

 

 

 

大河氏は甚だ憤っている。世の中が根本的に間違っているからである。あなた、正気を取り戻しなさい。

 

 

若い人らにだって、色々あるのだ。快楽ばかりを求めて生きているのではない。そんな生き方をしていたら阿呆になっちまうだろう。くだらん快楽よりも怠惰な生活を好むものもいる。ひたすら物思いにふけるものもいる。快楽は早々に諦めて勉学に打ち込むものもいる。実に賢い生き方である。

 

 

 

それなのに世の大人は「若いうちにしかできぬこともあるぞよ!」などとニマニマしながら諭してくる。そういった悪い大人はたいてい「青春万歳論」を振りかざすのである。

 

青春が良いものであるなんて誰が決めたのか。若者は青春をしなきゃいかんのか。青春を謳歌しない者は市民権を有しないかのような思想を持つものもいる。慇懃無礼、若者の個性を尊重せよ。

 

 

 

もちろん青春そのものを否定するつもりはない。部活動に打ち込み爽やかな青春を満喫するのは良かろう※ただしその目的が恋を成就されることではない場合に限る。ドロドロな青春など、大学生には不要で有害である。

 

 

 

思うに、恋愛に勤しむ大学生というのは概して学業成績が低い。大学生活において恋愛は逃げ道の一つであり、運悪くもその逃げ道に迷い込んだ大学生には憐むべき残酷な未来しか待ち受けていない。大学生活において学業より恋愛を優先させるなど言語道断である。学業のために欲を抑えられない者に幸せな未来が用意されているはずがないだろう。大河氏はこんな体たらくの大学生を完膚なきまでに批判したい。同じ身分のものとして恥ずかしいのである。

 

 

 

大河氏は青春という言葉が就寝中の大河氏の身体の上をトコトコと歩く汚虫ほど嫌いである。青春という言葉は青年期に起こるすべてのことを肯定しようとする。気色悪い。そしてこの「青春」を規定する代表的行為が恋愛である。前述の爽やか寄りの青春にとって、恋愛ほど我が名を汚すものはないといったところだろう。

 

 

残念な人々は恋愛経験をもって一人前の人間たるとする。恋愛ができないものを嘲笑う風潮もある。不愉快である。恋愛をしようがしまいが個人の自由である。むしろ恋愛ができることはすなわち恥と知れ。恋愛に費やす時間があるなら修練をしろ。己の能力向上にその時間を投資しなさい。

 

 

 

 

また恋愛というのは自己の統制機能の低い者が好むものである。電車の中で唇を重ね合うカップルなど見るに堪えない。破廉恥罪で逮捕しちゃうぞ。その点恋愛をしないものは自己をコントロールする力が備わっていると言える。パートナーはいわゆる依存対象であり、依存対象を持たない孤独な者のほうが人としてしなやかで強いに決まっている。

 

自己統制機能の強さは、ちょっとやそっとのことで勘違いしたり、惑わされることがないという証でもある。「自分が他人に認められているかもしれない」などと思うことは人として傲慢である。恋愛をしない者は自分を認める他者がいない代わりに自分を日々研鑚し、自分で自分を認められる日を目指しているのである。どう見ても強い。

 

 

 

 

 

今日大河氏がキャンパス内をぼけぼけと歩いていると一回生以来の友人である無気力氏に遭遇した。「ご無沙汰してますなあ。大河氏、少し見ない間にまさか彼女ができたなんてことはあるまいな?」「俺は常に黒髪の乙女のことを思っている。だが思うだけで十分だ。恋愛とは幻想であり実質的に虚無である。くだらんことに時間を割いている暇はないのだ。無気力氏、俺は彼女などつくらんよ。永遠にな」「同志よ、俺はおまえを信頼している」かくして我々はお互いの誓いの強さを確かめ合ったのである。

 

 

 

 

 

 

 

誤解してくれるな。意地など張っていない、悔しさもない。ただ人として強くあろうという一心で、恋愛もとい青春万歳論を否定し続ける。