大河氏は私の羊飼い

このブログはフィクションであり、実在する大河氏とその周辺人物にはいっさい関係がない。

大河氏、点字ブロックの神秘に迫る

皆さんの住む地域にも、きっと点字ブロックなるものが地面に埋め込まれているはずである。

そしてきっと、皆さんはその存在意義をご存知であるはずだ。点字ブロックの主たる設置目的は、視覚に障害のある方の安全な歩行の一助となることである。

 

そういった意味では、私は、現時点では近視ではあるものの、社会的屋外生活において必ずしも点字ブロックの恩恵を授かるべき人間であるとはいえない。

そうであるにもかかわらず、私は歩行中にあの基調である黄色と滑り止め粉によって煌めく点字ブロックを目にすると、その上を歩きたいという衝動をこらえられなくなるのである。いったいぜんたいどういう訳であろうか。

 

 

 

本来であれば、視覚障害のある方の妨げになることを防ぐため、点字ブロックの上を私のような幸運にも視覚に不自由のない身が歩くことはあまり好ましくないと私は考える。そんな持論とは裏腹に、ひとたび点字ブロックを視界にとらえたが刹那、我が動物的本能はその点字ブロックに向かって足にして向かわしむことをはばからないのだ。私はこの持論と動物的本能との乖離に猛烈な心理的ストレスを感じずにはいられない。

 

 

 

 

 

私は、この動物的本能を呼び起こす点字ブロックの魅力を明らかにし、真っ向から対峙したい。願わくば、この対峙を克服し、社会的屋外生活においてストレス-フリーに生きていかんことを。

 

 

 

 

 

まず私は点字ブロックの形状に着目した。点字ブロックの形状には、大きく分けて2種類あることは言うまでもない。一つは文字通り半径2センチほどの「点」で埋め尽くされたもの、もう一つは4本の直線によって埋め尽くされたものである。

注目すべきはこの「点」や「直線」が、地上方面へやや浮き上がっていることであり、同時にそのふみ心地がいかがであるかということである。

 

蓋し社会的屋外生活とは、足裏への刺激に満ち足りないものである。したがって点字ブロックは、ただでさえ刺激のない生活に疲弊している現代人の、足裏的欲求を満たす機能を果たしているのではないだろうか。

 

 

この仮説の信ぴょう性を裏付ける事実が一つある。鋭い読者は「点字ブロックごときで足裏に刺激が与えられる筈がない」と思われるかもしれない。私はこの意見には7割がた賛成したい。残りの3割は、足裏が人並み以上にむくんでいる人の場合である。足裏のむくみに悩まされている人というのは、どんなに些細な突起物にも足裏を当てたくなるものなのだ。これは仏像が盛んにつくられるようになった時代からの普遍の真理である。仏身はみな扁平な足裏をもっているが、これを目にすると必ずこの足裏を慈悲深くも揉んで差し上げたい!と本能的に思うことであるだろう。それと同じように、足裏のむくみに悩まされる者は、どんなに小さく見える突起を目にしても「我が足裏に刺激を与えたまえ」と本能的に思うのである。

 

そして、私は現に足裏のむくみになやまされているのだ。点字ブロックの上を歩くことをやめられない私が、だ。

 

 

 

 

 

私はこの結論にたどり着いたとき、脚のマッサージをより入念にすることを心に誓った。点字ブロックの上を歩いていたが故の不慮の事故の可能性を、能う限り減らすためである。

足裏のコンディションを鑑みて、どうしても点字ブロック上を歩かざるをえない場合には、くれぐれも周囲に十分注意して歩行することとしようと思う。

 

 

 

 

 

 

皆さんの中に私と同じストレスに悩む者がいるならば、上記の忠告を肝に銘じていただきたい。それでも安全であると判断できる場合のみ、点字ブロック上の控えめな幸せを、存分に享受しようではないか!

 

 

 

 

 

大河氏、春の別れをつらがる

 

言わずもがな、春は別れの季節である。

 

別れといえど、それはさまざまな分類ができる。その翌日に再会をする「別れ」もあるだろうし、その再会が1年後のもの、10年後のもの、死ぬまで再会しないもの、死ぬまで思い出さぬもの、その全てをひっくるめて世の人は「別れ」と呼ぶ。

 

 

 

3月は別れの季節であるが、別れというものは潜在的にはどの季節にも発生しうる。どの季節にも発生しうるし、それがもとより予期できぬ場合もある。

 

人の死も別れの形の1つであり、それは上記のうち「(自分が)死ぬまで再会しないもの」に分類されるといえる。もちろんここでいう「再会」とは物理的なものである。

 

 

人の死は、私たちに「もう2度と会うことができない」という絶望感をハッキリと植えつける。だから私たちはそれを「今生の別れ」として特別に意識することができる。そう意識できることで私たちは途方もない悲しみに襲われるが、別れとして認識し、涙を流すことができるというのはじつは幸せなことでもある。

 

 

 

 

 

 

私はこの春にも多くの別れを経験するだろう。しかしこれは、「一生再会できない」という絶望感を伴うものではなく、「また機会があれば会えるし、今と変わらず楽しむことができるだろう」という半ば楽観的な予測をさせる類のものである。

 

 

 

しかしながら、そのような予測を確証としてもつことはできない。この春に別れたきり、死ぬまで2度と会えない可能性を誰が否定できるだろうか。それは私にとってその存在の「死」とまさに同義である。私の中でその別れる存在は別れの瞬間以降は「思い出の人」であり、「思い出の中でしか生きられない人」である。

 

 

 

おそらく、この春に私が別れる人の中にも、このような人、つまり死ぬまで2度と会うことのない人がいるだろう。本来ならばそれは言いようもないほどに悲しいことであり、私は泣きじゃくることを余儀なくされてしまう。

 

 

しかし、私にはそれができない。なぜなら、私はどの別れに対しても、「死ぬわけではないからまたどこかで会うことができるだろう」という楽観的な姿勢を貫いているからである。そうでないと私は毎春、泣きすぎにより溺死してしまう。

 

 

 

 

 

 

「死」と「春の別れ」は、ときに同義であり、「春の別れ」の方が、「2度と会えない」という可能性を隠しがちであり、タチが悪い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私はそんなことを考えながら、中途半端な気持ちで毎日の別れに臨み、出会いに後悔するのである。

 

 

 

黒髪の乙女氏、『大河氏、青春万歳論を批判する』を読む

 

 

 

最近、大河氏さんをよくお見かけします。大河氏さんは私の一つ年上で、学部の先輩に当たります。私は人を覚えるのがあまり得意ではありませんが、前期からいくつか大河氏さんと同じ授業を履修しているので、大河氏さんの顔と名前は一致しています。

授業中の大河氏さんは、毎回前の方の席で惰眠を貪るか、熱心に物書きをしています。先生の話を栄養に就寝し、十分な睡眠を活力にして物を書いているような方です。

私には授業を一緒に受ける友達がいないので、毎日1人で授業を受けるのですが、教室が混み合っているときには大河氏さんの隣の席を確保することがあります。大河氏さんの隣の席は何故かいつも空いています。不思議なことに誰も座ろうとはしないのです。

このような訳で私と大河氏さんは特別に深い仲ということもなく、かと言って大学でお見かけする99%と同じように、初対面の名前も知らない学生さんという訳でもありません。

それでは、なぜ私が大河氏さんのブログを拝見する運びになったのでしょうか。前述のような希薄な関係性であれば、わざわざ私が大河氏さんのブログを探し当てることも未来永劫ないでしょう。しかし、これは決して偶然ではなく、偶然によって生まれた必然とも言えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、大河氏さんを偶然お見かけする機会が、特筆して多いことに気がついたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大河氏さんの最新のブログ記事『大河氏、青春万歳論を批判する』を拝読しました。私は、手放しに他人の論理に賛同もしくは否定せずに生きていくように、と兄に教わっているのですが、大河氏さんの言い分には納得できる部分も多くありました。

人間はいっときの感情に流されながら生きてはならないと思います。私は感情的になっている人を見かけると少しげんなりしてしまいます。温まった感情は、必ずや冷めていくものなのです。人は怒ると壁にパンチを喰らわせますが、のちに冷静になってその壁の穴を見返すと、なんとも恥ずかしく、悲しい気持ちになります。当然これは恋愛にも当てはまります。恋をすると、まるで永遠に相手を好む気持ちが続くかのように錯覚する人が多いのがなんとも嘆かわしい。デートをするたびに記念のツーショットを撮る呆れたカップルもいると聞きますが、別離した後にその写真を見たらどんな気持ちになるのでしょうか。大河氏さんの記事を読むに、大河氏さんは感情に流されずに生きるということをよくわきまえて生きているように思いました。大河氏さんは信頼できる人間です。

 

大河氏さんを学校や登下校時の電車あるいは駅で見かけるとき、大河氏さんは決まって1人で少々まごついています。大河氏さんは、授業で隣の席に座ったこともある私が月曜日と金曜日の登校時に同じ車両に乗っていることに気づかれているでしょうか。たまにチラリと視線を感じることもありますが、目を合わせてくださったことはありません。

私は校内でも大河氏さんを頻繁に見かけます。授業の間の休憩時間で教室移動をしていると、大河氏さんとよくすれ違います。授業の終わりには、教室を出るタイミングを大河氏さんと同じくすることも多いのです。先日は私が学食のカウンター席でカレーライスを頬張っていると、隣の席に大河氏さんがやってきましたが、やはり私に気づいていない様子でした。私は木曜日の授業が終わると、大学の最寄駅の中にある書店で本を眺めることにしているのですが、大河氏さんもよく同じ時間帯に小説を立ち読みしています。今日お手洗いから出て角を曲がって廊下に出ようとした際に、たまたま廊下を歩いてきた大河氏さんと危うくぶつかりそうになりました。

よく考えてみると、不思議なほどに大学生活において大河氏さんを偶然お見かけすることが本当に多いのです。大河氏さんとまだ一度も話したことがないという事実が大河氏さんの存在をより一層引き立たせてもいます。

だから、大河氏さんの生態を暴くために、苦手なSNSを使ってサーチしてみたところ、大河氏さんと思しき人が書いているブログ記事を発見しました。私は大河氏さんが意外にも人間味のある事柄を書かれていることに驚きました。

 

『大河氏、青春万歳論を批判する』の中で、ひとつだけ気になる点がありました。

大河氏さんは、「常に黒髪の乙女のことを思っている」と書いていました。感情無常論に従って、破廉恥な行動に出ない大河氏さんの我慢強さと愛すべき押しの弱さは称賛に値します。

では、その「黒髪の乙女」とはいったい誰のことなのでしょう。私は黒髪であるという点で大河氏さんのいう「黒髪の乙女」の条件に当てはまりますが、「黒髪の乙女」は黒髪であるという情報しかないので、それだけでは確信を持つことはできません。そもそも、きっと大河氏さんの想いびとは他の人のはずです。

 

大河氏さんの、劇団ひとり氏のようなつぶらな瞳にはどんな魅力的な黒髪の乙女が映されているのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

※大河氏の名誉のために付け加えておくが、当ブログの記事はフィクションであって実在する大河氏との関連はない。皆さんはくれぐれもストーカー被害にはお気をつけて。

 

 

 

 

 

大河氏、青春万歳論を批判する

 

 

 

 

大河氏は甚だ憤っている。世の中が根本的に間違っているからである。あなた、正気を取り戻しなさい。

 

 

若い人らにだって、色々あるのだ。快楽ばかりを求めて生きているのではない。そんな生き方をしていたら阿呆になっちまうだろう。くだらん快楽よりも怠惰な生活を好むものもいる。ひたすら物思いにふけるものもいる。快楽は早々に諦めて勉学に打ち込むものもいる。実に賢い生き方である。

 

 

 

それなのに世の大人は「若いうちにしかできぬこともあるぞよ!」などとニマニマしながら諭してくる。そういった悪い大人はたいてい「青春万歳論」を振りかざすのである。

 

青春が良いものであるなんて誰が決めたのか。若者は青春をしなきゃいかんのか。青春を謳歌しない者は市民権を有しないかのような思想を持つものもいる。慇懃無礼、若者の個性を尊重せよ。

 

 

 

もちろん青春そのものを否定するつもりはない。部活動に打ち込み爽やかな青春を満喫するのは良かろう※ただしその目的が恋を成就されることではない場合に限る。ドロドロな青春など、大学生には不要で有害である。

 

 

 

思うに、恋愛に勤しむ大学生というのは概して学業成績が低い。大学生活において恋愛は逃げ道の一つであり、運悪くもその逃げ道に迷い込んだ大学生には憐むべき残酷な未来しか待ち受けていない。大学生活において学業より恋愛を優先させるなど言語道断である。学業のために欲を抑えられない者に幸せな未来が用意されているはずがないだろう。大河氏はこんな体たらくの大学生を完膚なきまでに批判したい。同じ身分のものとして恥ずかしいのである。

 

 

 

大河氏は青春という言葉が就寝中の大河氏の身体の上をトコトコと歩く汚虫ほど嫌いである。青春という言葉は青年期に起こるすべてのことを肯定しようとする。気色悪い。そしてこの「青春」を規定する代表的行為が恋愛である。前述の爽やか寄りの青春にとって、恋愛ほど我が名を汚すものはないといったところだろう。

 

 

残念な人々は恋愛経験をもって一人前の人間たるとする。恋愛ができないものを嘲笑う風潮もある。不愉快である。恋愛をしようがしまいが個人の自由である。むしろ恋愛ができることはすなわち恥と知れ。恋愛に費やす時間があるなら修練をしろ。己の能力向上にその時間を投資しなさい。

 

 

 

 

また恋愛というのは自己の統制機能の低い者が好むものである。電車の中で唇を重ね合うカップルなど見るに堪えない。破廉恥罪で逮捕しちゃうぞ。その点恋愛をしないものは自己をコントロールする力が備わっていると言える。パートナーはいわゆる依存対象であり、依存対象を持たない孤独な者のほうが人としてしなやかで強いに決まっている。

 

自己統制機能の強さは、ちょっとやそっとのことで勘違いしたり、惑わされることがないという証でもある。「自分が他人に認められているかもしれない」などと思うことは人として傲慢である。恋愛をしない者は自分を認める他者がいない代わりに自分を日々研鑚し、自分で自分を認められる日を目指しているのである。どう見ても強い。

 

 

 

 

 

今日大河氏がキャンパス内をぼけぼけと歩いていると一回生以来の友人である無気力氏に遭遇した。「ご無沙汰してますなあ。大河氏、少し見ない間にまさか彼女ができたなんてことはあるまいな?」「俺は常に黒髪の乙女のことを思っている。だが思うだけで十分だ。恋愛とは幻想であり実質的に虚無である。くだらんことに時間を割いている暇はないのだ。無気力氏、俺は彼女などつくらんよ。永遠にな」「同志よ、俺はおまえを信頼している」かくして我々はお互いの誓いの強さを確かめ合ったのである。

 

 

 

 

 

 

 

誤解してくれるな。意地など張っていない、悔しさもない。ただ人として強くあろうという一心で、恋愛もとい青春万歳論を否定し続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大河氏の弁明

 

 

 

 

大河氏の母親は大河氏に対していつも部屋を片付けなさいという。大河氏が大河氏軽蔑社会に疲弊して帰宅するやいなや部屋を片付けなさいというので、帰宅時にはドアをそおっと静かに開け閉めしそそくさと二階の自室に立てこもる。そうでもしないと耳にタコができるだろう。起床は母親が外出してからにすると決めている。どうせ片付けないのだから、部屋を片付けなさいと言うのに使う母親の労力を削減しようという大河氏なりの配慮である。なんと立派な孝行息子だろうか。

 

 

 

 

しかし大河氏は自分でも自室が散らかり過ぎていることを自覚しているのである。だいいち自室に足の踏み場がない。これに関しては散乱した本や服を踏めばいいのではないかと思われる普遍的な価値観を持った読者も多かろう。しかしながら、視力の低い大河氏は、起床しお手洗いに向かう際に床に置かれたものを踏んで転倒したり、足の裏にあざができたりするのが朝の風物詩となってしまっている。ゴミ箱に足を踏み入れてしまいあまりの惨めさに号泣することも日常茶飯事である。そんなことが起こるたびに大河氏は自室を片付けておかなかったことを反省するものである。

 

 

 

 

そんなに自分を傷つけてもなお、大河氏は自室を片付けることができない。

 

 

 

 

そもそも大河氏は多忙な大学生であるから、自室を片付ける時間など用意していないのである。授業や合唱団あおいの活動もさることながら、帰宅すれば万年床で猥褻文書を読んだりアイドルの動画を閲覧し、気づいた時には朝のお目覚めである。そうして入浴しながら大声で歌い、最寄駅めがけて全力疾走する毎日である。電車に乗ると汗だくになり、せっかくの朝風呂は台無しである。しかし上がった息は大河氏に生の実感を持たせる。今日も温泉街は暖かいな!

 

大河氏は一日中家にいる日もあるがそういった日に自室の掃除をすることを自らに許していない。休暇を満喫しないことは人間としての怠慢であるから、そんな日は主に猥褻文書を読むかアイドルの動画を閲覧する。それに飽きればもうすることがないので寝るのである。

 

 

 

部屋の掃除をしない理由は多忙だけではない。部屋の掃除をしなくても大河氏には死なない自信がある。大河氏は常に合理性を重視して行動する。死なないのであれば自室の掃除なんて面倒なことはしないのが合理的だという主張には誰もが共感するところであろう。

 

机上にはもう2度と見返されることのない授業プリントが積み重なっているが、長い期間置かれているとなんだか愛着が湧き、捨てるのが惜しくなってしまうのが人間の性である。勉強や読書は絶海の孤島こと椅子上ですることができる。自室は埃だらけなので喘息を発症し死ぬほど辛い思いをしたことがあるが死んだことはない。さらに上述の通り大河氏は自室が散らかっていることで怪我をしたことがあるが、やはり死んだことはない。

 

死が怪我や病気の延長線上に存在する事を考えれば、部屋が汚い事は非常に危険であり、現に大河氏には死の兆候が垣間見える。ならばやはり自室をクリーン・アップするべきだ。大河氏は常に合理性を重視する男なのだ。

 

 

 

 

 

臆病者の大河氏はこうした思考に基づき自室を掃除することがある。掃除ができないのではなくきっと普段はしようとしていないだけなので、いざ手をつければぽんぽんと片付けることができる。

部屋が綺麗になるとスペースが生まれる。そして、空間は利用されるためにある。空いたスペースに洗濯済みの服や脱ぎっぱなしの服、授業プリントや本の類を置いていく。スペースが有れば利用するのが合理性に基づいた行動である。整頓された部屋はアッという間にいつものゴミ屋敷へ元どおりとなる。

 

 

 

 

 

大河氏が連発する''合理性''という言葉は所詮言い訳に過ぎない。大河氏はこれからもこの汚い部屋で怪我や病気をし、望まない学問的退廃に精を出していくだろう。怠慢が敗北するのは必定であり、部屋の乱れはその象徴なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絶対的生活感主義者

大河氏、夏休みの正攻法を考える。

 

 

大河氏は前期課程の全ての授業を終了し、事実上の夏期休暇に突入した。厳密に言えば補講と重たい課題が残っているので、まだまだ忙しい日々は続くだろう。そんなことを思って「やれやれ」と呟いたところ、向かい側に座る若者が驚いた様子でこちらを見つめている。大河氏がブログを執筆するのはいつも電車の中である。

 

とはいえ、待ちに待った長期休暇を楽しむ準備は万端である。

 

 

夏休みにしたいことは何かと聞かれても困る。

夏休みというものは、冷房の過剰に効いた自室でぶあつい布団にくるまりながら正午まで惰眠を貪り、腹を満たして布団に出戻り、窓から夕陽の射す頃までひたすら読書に耽る。読書に飽きたら庭に座り込んで弟の帰宅を出待ちし、帰宅した弟とじゃれあい、腹を満たして布団に帰る。このように布団を中心とした規則正しい生活を送ることが夏休みの基本である。

 

読者諸賢におかれては、こんなに生産性のないように見える生活をする者は両親に謝れよ、しかるのち死ねと思うかもしれない。しかし、このように布団の中に籠っていると、突然行動力がむくむくと湧いてくるのが人間である。そのタイミングを見極めることが重要なのだ。暇を持て余しすぎてどうにかなりそうになり詰めたその瞬間、人間の行動欲は最大値に達し、その行動を最も有意義に、そして最も楽しむ事が可能になるのである。何かをしたいという衝動の、有効活用の極地である。

 

布団にこもることの利点はそれだけではない。人生において、何もせずにただぽつねんとしている時というのは、人生の深みを形成する時間である。布団にこもる時間は、これまでに得た知識と知識を結びつけたり整理したりする時間である。だから、すぐれたアイデアはいつも布団から生まれる。知識が体系化されることで人生に味が出るのだ。

 

 

 

 

思うに、夏休みだからといって何かその爪痕を残そう、思い出になることをたくさんしようと躍起になることを潔しとしてはならない。時間があるときこそ、せわしない日常で蓄えたものを思う存分に整理し、またそのような面白くない作業をする中で自分が真にやりたいことを見つけ出し、満を辞してそれに取り組む。これこそが夏休みの美学で、最も有意義な時間の使い方である。

 

 

くれぐれも、「青春をしようぢゃないか!」などと浮かれて浅い思い出づくりに精を出すことのないように。青春をしようとしても青春は我々に歩み寄ってはくれない。青春をしようと画策すること自体が無意味である。青春とは、依存症の種のような病気と全く同じで、自分がそれと気づかないうちに青春という病を患い、それに気づいた時には不幸に陥る。

 

 

 

 

 

 

 

 

なんだかあまり満足のいくおもしろい文章を書くことができなかった。これも夏バテのせいであろう。

 

それでは、良い夏休みをお送りください。

 

 

大河氏ら、桜の気まぐれに敗北する。

 

 

 

大河氏は、西田幾多郎氏の著した『善の研究』に挑んだことがある。結果として、大河氏はこの書を前にこてんぱんにやられてしまった。極めて難解な書である。この書を解読できたとき、大河氏は「我が人生に悔いなし!」と言えるのだろう。

 

そんな西田氏が思索に耽りながら歩いたとされるのが、京都の琵琶湖疏水沿いの歩道「哲学の道」である。

 

 

 

大河氏、リラックマ会長氏、カグラザメ氏の愛すべき幼なじみ3人組が、3月下旬の京都旅行においてこの歩道での花見を楽しもうとしたことは言うまでもない。事前に写真で見た哲学の道の桜の美しさをこの目で確かめたいという方針で3人は一致していた。

 

慈照寺で心を落ち着かせたのち、ソフトクリームをむちゃむちゃと食べながら南禅寺へと伸びる哲学の道の入り口に向かった。

 

地図を頼りに歩く一行であったが、あの桜の咲き誇る哲学の道の風景となかなか巡り会うことができない。大河氏らは異変を感じ始めた。道を間違えたのだろうか。

 

 

しかし、大河氏らは自分たちが道を間違えているようには思えなかった。地図の示す通り、3人の左手には琵琶湖疏水が流れている。これではまるで、哲学の道を目指して哲学の道に迷い込んでしまったようであるが、そんなはずはないだろう。カグラザメ氏が口を開いた。「我々はこの厳然たる事実を認めてやらなければならない。」大河氏は大いに落胆した。目の前にある木の細い枝の先の方には、硬くてかつ脆そうな蕾が見えた。桜は開花の時期を迎えていなかったのである。

 

 

 

桜の咲かない哲学の道は殺風景であった。こんな道を歩いていると、ふと西田氏が物思いに耽りながらこの道を歩く姿が頭の中に浮かんだ。裸の木を見てため息をつき、「人生とは何だろうか。」と大河氏は呟いた。なるほど、桜の咲かない質素な景色の哲学の道は歩く者を妙に哲学的な気分にさせるのである。

 

カグラザメ氏は前方を歩く1人の乙女を指差して「顔を見てみたい。」と言い出した。黒髪を肩まで垂らした後ろ姿からは桜のように美しい顔の乙女の姿が想像された。彼女が振り返ってその顔を見せることはなかったが、大河氏とカグラザメ氏は互いの妄想を共有して楽しんだ。リラックマ会長氏はくだらないと言って興味を示さない素振りを見せた。彼の不器用な姿を見て大河氏とカグラザメ氏は笑い合った。

 

 

 

 

そこから話は膨らみ、大河氏とカグラザメ氏は各々の好みの女性について徹底的に議論し、大いに盛り上がった。リラックマ会長氏はしばらく黙って歩いていたが、急に立ち止まり言った。

 

「人生とは、求める美しい花の気まぐれに敗北を繰り返しながらも、その敗北を糧にまた新たな美しい花を見つけることを繰り返すことである。もし今日、哲学の道に桜が咲いていれば、君たちは今ごろこんなくだらぬ話に花を咲かせてはいなかったであろう。桜の咲かない哲学の道、万歳!大団円!」

 

リラックマ会長氏の熱弁に2人は感動し、高らかに笑い声をあげ、拍手を送った。そして桜の気まぐれに感謝し、開花してなお我々を楽しませてくれるよう木々に対して熱いエールを送った。リラックマ会長氏も加わって、3人は再び好みの女性について熱い議論を交わしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大河氏ら、渋谷と対峙する 第3章

 

 

 

ナヨナヨ族の葛藤とささやかな喜びを描いた衝撃の三部作もついに最終章を迎える。ご高覧の読者諸賢に感謝を申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後の挑戦である。そもそもこれまで失敗を続けて来たのはタピオカ店のキラキラな雰囲気に呑み込まれてしまうからである。この課題をなんとか克服しなければ成功はない。

 

 

 

 

 

大河氏らが到着したころには店舗は大変混み合っていて、店の約50メートル先まで列が伸びていた。これは大河氏らにとって幸運であった。いきなり店舗の中に入るよりも精神的負担は軽く、タピオカを目指していることをあまり実感しなかった。左江内氏は「なんだかこのままいける気がしますなあ」とニヤニヤしながら言った。

 

 

 

 

 

だが、ここで最初の試練が訪れる。店員が混雑緩和のために、並んでいる客の注文をあらかじめとっていたのである。前に並ぶ女性2人組が注文している間、大河氏は猛烈に憂鬱な気分になった。というのも、大河氏らはタピオカの種類やら味やらを何も存じあげないので、店員に「どうしようもない奴らであるなあ!」と呆れられてしまうことを恐れたのである。

 

一方の左江内氏は熱心に他の客が注文する様子を観察していた。やはり彼も少しでもタピオカに暁通するものであると思われたいのである。

 

 

大河氏はこんな情けない左江内氏の様子を見て、些細な見栄を張るような真似をせずに、わからないならわからないなりに堂々としていようと誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気づけば大河氏らは注文を済ませていた。大河氏はどの商品を注文したのか覚えていない。ただ店員の訳のわからぬ説明に適当に頷いていたのだろう。店員から渡された控えにはいちばん基本的なものと思われる商品の欄にチェックがついていた。

 

 

 

 

 

第一関門を突破した大河氏には想像以上の手応えがあった。やはり、わからないならわからないなりにどうにかなるのである。一方の左江内氏も同じように来るべき不安要素にたいしてやや希望的になっているようであった。

 

 

 

 

 

列は進み、大河氏らも店舗の中に入った。やはり店舗の中は女性とその恋人と思われる男性にあふれていて、大河氏と左江内氏のようなむさくるしい風貌の者がいるはずはなかった。大河氏はやはり店の外に出たくなったが、ここで逃げ出してしまえば逆に恥をかくこともまた理解していた。そして、今さら風貌を変えることなどできないのだから、どうせであれば雰囲気だけでも堂々としていようと2人は約束した。

 

ここまで来て恥を全面に押し出しているようでは悪目立ちしてしまうであろう。よく考えれば、この店舗にいる客とはおそらく今後の人生で2度と顔を合わせる機会がないのだから恥ずかしがる必要性がないのである。

 

 

 

大河氏は強気であったが、待っている時間はそれまで以上に長く感じられた。聞こえてくる全ての声が自分への悪口に聞こえた。しかし大河氏は耐えた。これが自分の成長につながると信じて疑わなかった。

 

 

 

 

 

やっとの思いでカウンターまでたどり着いた。店員は爽やかな青年男性であったが、顔の端正さでは自分が優っていると大河氏は感じた。それと同時にそんなことを考えている時点で自分はこの店員に敗北したと感じた。そんなことが悟られぬよう素人然として支払いを済ませ、商品を受け取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大河氏は左江内氏とともに店舗を出ると、言い表すことのできぬ開放感に襲われた。口にしたタピオカはタピオカの味というよりも歓喜の味であった。タピオカ自体が世間で叫ばれるほど美味しいとは感じなかったが、大河氏はとにかく自分の成長を喜んだ。この開放感を味わっていると、これまで散々葛藤してきたことがなんだか阿呆らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてやはり、大河氏は他の事物を過大評価する癖は治されるべきであるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

偏見愛好家

 

 

 

大河氏ら、渋谷と対峙する 第2章

 

かくあって(前項参照)タピオカを目指して渋谷を奔走する運びとなった大河氏らであるが、こういった場合はその無計画さゆえになにかと無駄な時間を費やしがちで、大河氏らもその例外ではなかった。

 

 

昼食をとったイタリアンの店を出て、道玄坂を背に地図の示すタピオカの店舗を目指した。道玄坂を下りながら、大河氏は隣にいるのが左江内氏ではなく黒髪の乙女が良いのに、そして時間帯が朝早くの時間であればもっと興奮しただろうに、と妄想した。ちなみに左江内氏も隣に歩く大河氏に対して同じ思いを持っている。

 

 

 

目指していた店舗はそう遠くはなかった。都会というものは地名の示す範囲がとても狭く、密度が高い。伊勢原はどこまでいっても伊勢原であるが、都会を歩いていると数分も経たないうちに別の地名が出てきて混乱する。

 

 

 

大河氏と左江内氏は客の列が店舗から溢れている光景を見かけた。なるほどここが目指していた店舗のようである。よく見ると、客はほとんどが女性、それもキラキラ族の出身であることを誇示するかのようなオサレな服や鞄を身にまとっている。大河氏は絶句した。そして、我々のような見窄らしい者の入店は禁止されているのだろうと思った。長年の経験から培われた自尊的卑下直観力が発揮されたのである。自尊と卑下は一見すると相反する単語であるが、「自尊感情が傷つけられないための、自分の客観的評価を低めに見積もることで自分の行動を抑制しなければならない状況を冷静に見極める能力」と捉えてほしい。

 

 

 

 

 

 

大河氏と左江内氏は店舗から離れた。左江内氏にも同じ直観力が培われていた。この点で大河氏は左江内氏を信頼している。

 

 

 

その後も何度か店舗に向かって歩いていくのだが、キラキラな行列を見ると猛烈な畏怖を感じ結局何事もなかったかのように店舗の前を通り過ぎてしまう。我々のこんな無様な姿を見たものがいないものを祈るべきである。強いて言えば、ナヨナヨ族の者でも入店がたやすい雰囲気を整えておくべきである。その方が売り上げも伸びるであろうからアドバイスしておく。

 

 

何度か繰り返すうちに大河氏は疲弊した。そして計画の頓挫を悟った。

 

 

 

しかし、左江内氏は諦めていなかったのである。

 

左江内氏は、もう一度入念な計画を立ててから実行しようと言った。左江内氏は阿呆であると大河氏は思った。そして、左江内氏を渋谷に残して帰宅しようとしたその時である。

 

「お前はタピオカに敗北したままで満足か。我々のようなナヨナヨ族はいつも敗北の責任を自分以外のものに押し付けようとする。ここで自分の殻を破ろうとは思わんか。タピオカをたしなむ権利のないものなどいないはずである。我々を笑うものは笑わせておけ。見えない敵を相手に自分の意思を曲げることなどあってはならないのだ。精神的に向上心のない者は馬鹿だ!!」

左江内氏の熱弁であった。気づけば大河氏は圧倒されていた。心の中に燃えるものがあった。

 

 

 

大河氏らはラーメン店で作戦を話し合った。もちろん目標は窃盗でも異物混入でもなく単なる購買であるため特別な行動が必要であるわけではない。必要なのは強い心持ちである。大河氏のなかでは目的はもはやタピオカをたしなむことではなく「見えない敵に勝利すること」であった。

 

 

 

大河氏らがラーメン店を出た時、時計の針は午後6時30分を指していた。2人はこれが最後の挑戦とすることを約束し、タピオカ店を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

大河氏ら、渋谷と対峙する 第1章

 

 

 

 

渋谷とはなんとも不思議な町である。原宿や秋葉原鶴巻温泉などと並んで若者中心の文化の拠点と言われるが、それゆえに文化の対象とならない者たちを徹底的に排除する傾向にある。

 

 

 

 

 

 

 

そして大河氏もまた、排除されるべき者の1人である。

 

 

 

 

 

 

大河氏は普段から学校、アルバイト、推しのイベントがあるとき以外は自宅の万年床で本を読んだり女性アイドルの動画を見たり菓子を食べたりしながら生活している。一見するとその暮らしは不摂生のように見えるが、大河氏にとってはとても充実しているのである。

 

 

そんな大河氏であるが、先日珍しく渋谷で遊ぼうと誘われた。誘ってきたのは大河氏と同じような気質をもつ左江内氏(19)である。大河氏はお相手が黒髪の乙女で無かったことを嘆くと同時に、猛烈に違和感を覚えた。「このぬらりひょんのような不吉な形相の2人があんなにキラキラした街に行って楽しいことが果たしてあろうか?」

 

 

 

 

 

 

当日は天気がよく、屋外で遊ぶにはちょうど良い気候であった。大河氏は渋谷に着き、ハチ公像に向かって心の中で挨拶をした。大河氏は推しのイベントで渋谷に来たことは数え切れないほどあるが、この日のように街自体を楽しむために来たことはない。左江内氏と落ち合うと、ハチ公像に心の中で別れを告げて道玄坂方面に向かった。左江内氏によれば、評判の高いイタリアンレストランがあるという。大河氏は夜に黒髪の乙女とともに道玄坂をのぼる妄想をしながら店を目指した。

 

 

 

 

そのイタリアンレストランに着き、恐る恐る入店し辺りを見回すと、なるほど確かに料理の美味そうな店である。老若男女の客ははいかにも上品然としていて、内壁にはかわいらしい花を植え付けられた花瓶や赤く静かに光るランプが取り付けられていた。大河氏は渋谷を感じたような気がした。大河氏はカレーを注文しようとしたが、「イタリアンの店でカレーを食うとは」と店員に小馬鹿にされると思ったので無難にランチセットを注文した。ランチセットが無難な選択肢であるということくらいは知っているのだと左江内氏に向かって胸を張った。左江内氏はカレーを注文し、「人目を気にしすぎて自分の好むところを曲げてはならない」と忠告した。

 

 

 

 

 

大河氏らは近くの机で食事をしていた2人組の若い女性のどちらが魅力的であるかを議論しながら食事を嗜んだ。美人を横目に口にする料理はより一層美味しく感じられた。

左江内氏のカレーは大層美味しそうであった。大河氏は一口だけ食べさせるようにせがんだが、左江内氏はそれを許さなかった。他人に簡単に何かを与えてしまうような男は信頼できない。大河氏は左江内氏の堅いガードに満足し、握手を交わした。

 

 

 

 

 

 

食事を終え、次の行き先の検討を始めたが、それがなかなか決まらない。渋谷の街に詳しい者を呼べば良かったなと嘆いた。そこで左江内氏は唐突にこんなことを言い出した。

 

 

「タピオカを飲もう。渋谷は文化の中心であり、タピオカはその文化の中心である。今の我々に足りないものはタピオカそのものなり!」

 

いかにも支離滅裂な発言であるが、大河氏はその勢いに押されて同意した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かくしてタピオカと2人をめぐる葛藤の物語の門は開く。

 

 

 

 

続く