大河氏は私の羊飼い

このブログはフィクションであり、実在する大河氏とその周辺人物にはいっさい関係がない。

大河氏、春を味わう

 

 

冬との別れを惜しみ、春に希望を抱く。街に出れば、陽の光がどことなく明るく感じる。春はとても良い季節である。こんなに良い季節であるから、花粉症を患う者が不憫でならない。彼らの心情は察するに余りある。風よ!どうか立ち荒れぬよう。

 

 

 

 

 

 

ある少納言は、「春はあけぼの」と日記に書いた。大河氏はその主張を真っ先に否定するのである。

 

 

 

春といえば当然、桜である。大河氏がある少納言の春についての考察を否定した際に、いったい大河氏はどんな面白いものに春の趣を見出しているのだろうか、と身構えた読者に対しては、それがやや期待外れであったことを謝罪したい。

 

 

 

 

確かに桜の美しさ、芳しさ、艶かしさについては日本国民の多くが認めるところであろう。現に人々は桜の木の下にビニールシートを敷き、その上に座って酒を呑み、騒ぎ立てることを嗜む。なおこの間、彼らは1秒たりとも桜の花びらに目をやっていない。

 

 

大河氏もこの春、黒髪の乙女と新宿御苑で花見をしたい。他のどこでもなく、新宿御苑の桜を慈しみたい。大河氏は妥協を知らない男である。

 

 

 

 

 

桜というコンテンツは日本の文化のあらゆる面に侵食している。これはたいへん喜ばしいことである。薄い桃色の車を見かけた母親は、娘に対して「あれは桜色ですな」と教えるし、その娘の名前が「さくら」であったらそれはもう言うまでもなく趣深い。

 

 

桜の侵出は食品界についても例外ではない。世の中には、「桜味」と名乗る食品が存在するのである。

 

 

 

 

 

桜味は、食品界の叡智の結晶である。

 

 

 

 

 

 

 

スウィーツを例にとって考えよう。世のスウィーツには、大きく分けて「チョコレート味」「抹茶味」「いちご味」「黒糖味」の4種類がある。これらはどれも、消費者から一定の支持を得ている。

その理由の一つに、味を表すものの元々の味が良い、というものがある。チョコレート、抹茶、いちご、黒糖、それぞれの味の特徴は違えど、みな「美味しい」という共通の認識がある。一方で、「スイカ味」と名乗るスウィーツは果たして消費者の支持を得るだろうか。否、断じて否。スイカはあまり美味しくないからスウィーツの味としてはそぐわないのである。

 

 

 

 

 

 

その点、桜というもの自体が美味しいので、桜味のスウィーツも消費者の支持を獲得して然るべきである。桜の花びらあまり日常的に味わうものではないが、一年に数回は桜の花びらが偶然にも口に含まれることがあるだろう。その時の幸福感は言うまでもない。ほんのりとした甘み、植物的食感、飲み込んだ後の口の中の香り。桜の花びらがもたらすその全てが食べたものを幸せにする。

 

 

 

 

 

 

とはいえ、花びらの味をスウィーツに再現するのには苦労を要する。花びらは味が薄く、インパクトが少ない。これでは競争の激しい食品界で生き残っていくことはできない。スウィーツとしての形にするには味を親しみやすい者に改良する必要がある。

 

 

 

 

 

ただし、改良しすぎると今度は元の味とのイメージ上の関係が薄れてしまい、その味のアイデンティティが崩壊することになる。あまりにミルクの味が強いにも関わらず抹茶味を名乗るものには強い反感を覚えてしまうのは致し方ない。同様に、桜味が桜味たる所以を忘れてはならないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

よって完成した桜味。大河氏が初めてこれを口にした時の感動や。桜味よ永遠なれ。開発者に感謝感謝。クリエイティブな完成に敬服。当人を存じ上げないが、この場を借りて感謝申し上げる。

 

 

 

 

 

 

 

今年の春も、量産されるであろう桜味を堪能しようではないか。春の醍醐味ここにあり。その美味しさを知らぬ者はどうかご賞味あれ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

桜味に目がない人